■ 中さんは、昭和7年9月19日 岩波茂雄と志賀直哉に、当分赤坂区表町中金一方に同居すると云うはがきを出して、平塚から引き揚げております。
■ 昭和17(1942)年4月3日 兄嫁末子死去(60歳) 中さんは「子供らしさを姉(兄嫁)はその業苦の四十年を通して、終にこの最後の日まで失わなかった。 …三十三年姉は、病兄の世話をするかたわら家事大事と身を木っ端にして蜜蜂のように働いてくれた。 その上に理不尽に降りかかる敵意と虐待と病苦。 四十年の寂寥。 この人のため泣くならば涙を雨とそそいでも足らない」と『蜜蜂』より。
■ 姉の死により、中さん58歳結婚を決断。 条件「健康で、善良で、地味で、兄の世話を良くしてくれる人で、少しは話が分かる人、できるだけ早く」誰彼となく、候補者をお願いした。 書道家の嶋田和さんを紹介してもらい、10月12日結婚。 その日兄自殺。 伏して式を挙げました。 この日以降中さんは長年の精神上の業苦の重荷から解放されましたが、積年の看護と心づかいと過労と睡眠不足、精神の虚脱感等で体調はすぐれませんでした。
杓子庵(静岡新間の居宅)
■「杓子庵」は杓子菜の畑が隣にあったことから名づけられました。 現在、離れと母屋が中 勘助文学記念館になっており、隣地に資料収納庫があります。 非常に良かったことは、中さんの遺族の方が、全ての中さんの書籍や資料をトラック2台静岡市に寄贈されたことです。
■ その後、羽鳥の「牛鳴庵」に移りました。「牛鳴庵」は近くに牛小屋があったことから、また「忘れ庵」は石上農園の山小屋。 涼しいし、閑静だし、親切だし、恰好の仕事場、書斎だったそうです。
■ 前田昇元館長は「子供たちは良く農道を散歩する中さんの後をついて歩いていました。私は180cmを越す身長、背筋をピシットと伸ばし真っ直ぐ歩く姿は ”え、この人日本人?” と思ったほどでした。 中さんの散歩は5、6キロは普通で、生活の中で散歩が大きなウェイトを占めていたようです。」と。 中さんと親しかった石上史子さんは「中さんは凛々しい人、卑しくない人、気高い感じ」と話されました。
■ 執筆… 『余生』『樟ケ谷』『羽鳥』『わらしな川』『風のごとし』『鳥物語』(鶴、ひばり、鶯、白鳥の4作品)
漱石山房記念館
漱石が晩年暮らした早稲田南町の旧居
■ 昭和40(1965)年、中さん(81歳)は、『中 勘助全集』(角川書店版)の完結と多年に亘る文学上の業績に対して、朝日文化賞を受賞され、同年5月3日蜘蛛膜下出血で死去されました。 中さんの死後、和さんは秀さんを養女としました。
■ 現在、この家を「銀の匙」と云い、中さんの妹 栄さんを祖母とする土岐勝信さん(先祖は美濃源氏土岐氏)が、引き継いでおります。
<出典>
本サイトの掲載情報は下記資料を参考とさせて頂きました。
『銀の匙』の作家 中 勘助の平塚時代
中 勘助文学碑建設記念誌 平成30(2018)年5月22日
平塚ゆかりの作家 中 勘助を知る会