平塚ゆかりの作家 中勘助を知る会は、平成25年9月、中勘助の文学的功績と平塚での足跡を市民と共に学び共に広め、平塚の文化振興に寄与することを目的として発足しました。
文学講座『しづかな流』の詩を読む
講師 初代会長 尾島政雄(25.11.5)
静岡 「中 勘助文学記念館」を訪ねて
見学と交流(27.3.17)
文学講座「中さんの散歩道」
居住地近くの松林(26.5.17)
平塚の家で詠んだ「ほほじろの声」の詩碑の前
中 勘助ゆかりの野尻湖&交流会(28.8.9~10)
詩集 「中さんの散歩道」発行
500冊(26.9.10)
作者 丸島隆雄氏 上演(なぎさふれあいセンター)
  さらに 中さんを知ってもらうには!!
末永く存在する文学碑の建設が不可欠
 
 多くの皆様のご協力により竣工出来ました!
 
1.平成29年5月31日 平成29年度総会「中勘助文学碑について」 
   文学碑建設の調査実施と文学碑建設のための事業積立金制度を決める。
 
2.平成29年6月~10月 文学碑 建設費調査
  ・大小様々な文学碑が作家の生誕地、作品の地にあり、最近の物は、外国産の石で碑文はブロンズ等ではめ込んだ
   ものが多かった。
  ・記念碑を手掛ける2社から懇切丁寧に碑について教えてもらう。 2社に見積りを依頼したが、会社都合で
   1社辞退。 中 勘助が平塚の豊かな自然を愛していたことを踏まえ1社より、小松石の直彫りの文学碑の
   見積りを求めた。
   当初は 200万円以上の額であったが、交渉の結果180万円となる。
 
3.11月~1月 文学碑建設を決める。 地元説明会開催、市内外より賛同者を募る。
  ・臨時総会(11月6日) 文学碑建設決定(小松石直彫り、建設費180万円)
  ・真鶴町の石切り場に行き小松石を決める(12月)
  ・地元花水、なでしこ地区説明会(12月、1月)
   理解と個々の賛同を得る。 事業を広めて頂く賛同者を市内外から83名4団体にお願いした。
  
4.2月~3月 集中募金活動月間、公益市民活動ファンド審査
  ・2月1ヶ月間、募金集中月間実施 平成30年4月20日現在364名の寄付。
  ・3月市民ファンドの審査により32万円の助成金決まる。
 
5.4月~5月中旬 工事施工、 5月22日 竣工式
  ・桃浜公園内南西入口の隣接地において文学碑設置工事。
  ・中勘助の生誕日である5月22日(火)大安吉日、10時より桃浜公園内で行う。
 
 
 ・冒頭の碑文は中勘助直筆。 直筆は東京都市大学の木内英実准教授が、科研費基盤研究の過程において発見された
  ものです。
  尚、この『しづかな流』の冒頭の言葉を灘校の故橋本武先生は、「聖書の一句のようです」と・・
              平塚ゆかりの作家 中勘助を知る会
                           会長 大蔵 律子

  写真提供 土岐勝信氏

『銀の匙』の作家 中 勘助は、大正13(1924)年、40歳の時、平塚海岸(浜岳中学校東)に敷地150坪、建坪25坪の家を建て、その年の暮れから、昭和7(1932)年9月中旬まで、7年9ヶ月余り主に平塚に住みました。
その家は中 勘助が建てた生涯唯一の家でした。 平塚での生活は約500ページに亘る日記体随筆『しづかな流』に余すことなく描かれ、当時の平塚海岸地域の自然を詩情豊かに活写しています。
 
『銀の匙』を教材として国語の授業を行った神戸灘校の故橋本先生は、中 勘助の全ての刊行書のなかで最も好きだったのは『しづかな流』で、特に冒頭の「しづかに時の過ぎてゆくのをみるのは しづかな流れをみるやうにしづかである」は、まるで聖書の一句のようだと記されております。
 
平塚海岸は温暖な地で、当時は別荘地帯であったことから、勘助は家族(病弱な母 鐘と兄 金一)の避暑避寒のため平塚に家を建てたと記されております。
 
「平塚ゆかりの作家 中 勘助を知る会」は、このご縁を平塚の文化的遺産と捉え、5年まえ平成25(2013)年9月に発足しました。 これまで講演会、文学講座、文学散歩、詩集の発行、ゆかりの地の視察などの活動をしており、更に平塚時代の中 勘助を広く知ってもらうには、末永く存在する文学碑の建設が不可欠であると考え、全国の皆様に呼びかけを致しましたところ、多くの皆様のご協力を頂き、更には平塚市民活動ファンドの助成金を得て、桃浜公園に文学碑を建設することが出来ました。 竣工式は中 勘助の生誕日(明治18年5月22日)の平成30年5月22日に盛大に行いました。 皆様に深甚のお礼を申し上げます。 誠に有難うございました。  
 

建立された中勘助文学碑

往時の面影を残す月湘庵松並木

湘南平塚海岸

小説『銀の匙』で知られる大正から昭和にかけて活躍した作家、中 勘助の功績を伝える文学碑が先月22日、平塚市桃浜町の桃浜公園に完成した。 勘助は大正13年、40歳の頃に生涯で初めて家を建てたとされており、その場所が現在の平塚市立浜岳中学校付近だと云う。 7年9ヶ月の平塚での生活は『しづかな流』に多く書かれており、往時の平塚の自然や生活が鮮やかに描かれている。
 

     左から土岐さん、大蔵会長、落合市長

文学碑は高さ約1m、幅約1.3mの大きさで真鶴の本小松石を使用。 『しづかな流』冒頭の「しづかに時の過ぎてゆくのをみるのは しづかな流をみるやうにしづかである」と云う一句が勘助の直筆で刻まれている。 建設したのは「平塚ゆかりの作家 中 勘助を知る会」(大蔵律子会長)。 同会は勘助の功績を文化的遺産として後世に残すべく平成25年に発足し、講演会、文学講座、詩集の発行などの活動を行って来た。 平塚時代をより広く知ってもらうべく、昨年から碑の建設を検討。 今年2月に全国に寄付を呼びかけたところ、364人から約165万円が寄せられた。 これに平塚市民活動ファンドより32万円の助成を受け、建立を実現させた。
 
今も残る勘助の息遣い
 先月22日、勘助の生誕日に行われた竣工式には同会メンバーのほか、落合克宏平塚市長、勘助の妹の孫にあたる土岐勝信さんなど約100人が出席した。 大蔵会長は「平塚の文化的まちづくりとして将来に何かを残そうと建設を考えた。 こうして市民のみなさんと今日を迎えられて嬉しい」と挨拶。 落合市長は「市議時代に勘助について質問したこともあり感慨深い。 再評価の機運が高まれば」と平塚の魅力の1つになることに期待を寄せた。 土岐さんは「親族としても光栄。 多くの人が来てますます興盛となるように」と祝った。 朗読「糸の会」による詩の朗読も行われ、参加者らは文学に残る平塚の情景に思いを巡らせていた。
 
関連事業も多数
 『しづかな流』の中には昭和初期のなでしこの花や野鳥といった自然や、物売りや着物などの庶民の生活、地曳や ”高麗寺の市” などの様子や愛犬「タゴ」の話が詩や随筆として詩情豊かに描かれている。 先月29日には、これらの足跡をたどり、各地で詩を朗読するイベント「中さんの散歩道を歩く!」が行われ、30人程の参加者が浜岳中学校敷地内の松林や、尼寺「月湘庵」などを回った。
 黒部丘の和菓子店「杵若」では勘助が愛したキノコ、松露の姿を模した「松露まんじゅう」を制作した。 当時、防風林として多くの黒松が植えられ、現在もその名残が多くみられる海岸エリア。 昭和の初めは春になると松露がどっさりと採れたそうだが、今は全国的にも希少になってしまったという。 現在、市内4つの図書館で『しづかな流』を借りて読むことができる。 文学という側面から平塚の魅力に迫っては。
 
 ※本文は、6月8日発行の湘南ジャーナル(No.1816)から、転載させて頂きました。

除幕式模様

「中さんの散歩道」詩の朗読

関係者一同記念撮影

イベントの講師は ”知る会 ”のメンバーが務めた

月湘庵は今も地域住民によって保存

”松露” の文字は大蔵会長の直筆

小説「銀の匙」などで知られる平塚ゆかりの作家、中 勘助の文学碑が完成し、同市桃浜町の桃浜公園で除幕式が行われた。
中は大正末から昭和初めまで平塚に住み、随筆『しづかな流』では平塚海岸の自然をみずみずしく描いた。
文学碑は「中 勘助を知る会」(大蔵律子会長)が呼びかけ、364人の寄付などを受けて出来上がった。 真鶴町産の本小松石に『しづかな流』の冒頭部分が彫られている。
 
大蔵会長は「晩年、中さんは『ご縁ですね』と云う言葉を良く使ったそうだ。 平塚と中 勘助のご縁を将来の市民にも伝えられる文学碑ができた」と喜んだ。
 
※本文は、5月25日発行の読売新聞(地域版)から、転載させて頂きました。(2018年)
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